Biography

Biography

1955年 アメリカ、ジョージア州アトランタ生まれ。 両親が日常的に音楽を楽しむ家庭環境に育ち、幼少より“人間は大人になったら、楽器を演奏するもの。” と思っていたという。

最初に演奏に興味を持ったのは小学生の時で楽器はドラムス。 この頃から毎晩のように自宅や友人の家で演奏を楽しみ、1960年代後半のLed Zeppelin, Cream等に傾倒。 高校生の頃、Progressive RockのYesやKing Crimson等に興味を持ち、リズムの面白い音楽を模索するうちJazzに出会う。

16歳で、McCoy Tyner(p)のレコード「sahara」でピアノに興味を持ち、 1973年春、アトランタのライブハウスでMcCoy Tyner(p)の演奏に衝撃を受けピアノを始める。怒涛のように繰り出すフレーズやビート感に強くインスパイアされた。 初めて演奏した曲はMcCoyのEbonyQueen 。
お気に入りのアーティストは、マッコイ・タイナー、ジーン・ハリス、レッド・ガーランド、アーマッド・ジャマル等。

20歳の時、アトランタからサンフランシスコへ。 1970年代の活発なJazzSceneに影響を受けながら学生時代を過ごし、アパートではドラムを叩けない事もあり、独学でピアノを本格的に始める。 
UCB(カリフォルニア大学 バークレー校)で応用物理学を専攻するが、Jazzへの思いから中退。
バークレーの友人やミュージシャン達と毎晩のようにセッションを楽しむ。 (だが、学費ローンのために始めたアルバイトがきっかけで、一時はサンフランシスコの摩天楼でビジネスマンとして働いていた事も…。)

26歳(1982年)で、サンフランシスコにてJazz Pianistとしてプロデビュー。 ベイ・エリアで活躍するボーカリストFaye Carol(フェイ・キャロル)のバンドで、有名ライブハウス(主に下記)に出演、同バンドのコンコード・ジャズ・フェスティバル、ヨーロッパ・ツアーで活躍。
Great American Music Hall
・Kimball’s East

この頃フェイから言われていた言葉、 “どんなスタンダード・ナンバーにもBluesがある。あなたの責任はそのBluesを探して音にすること。”を今の活動でも大切にしている。
この頃からツアーで色々な国へ。その国の文化に触れることも音楽の目的と考え始るようになる。
日本公演先で出会い結婚した妻の親族; 喜多流能楽 狩野派 能公演の感動はその後の和洋コラボレーションへの端緒となる。
狩野 琇鵬氏 は 重要無形文化財保持者(日本能楽会会員)、2009年 フランス芸術文化勲章 オフィシエ、2016年同 コマンドールを受勲
エクサンプロヴァンス市 能楽堂

サンフランシスコ Pearl’s(2003.4閉店)では After Hour Session※ のホスト・バンドを勤めた。
当時の共演ミュージシャンは、Jaco Pastorius(b) 、Eddy Henderson(tp)、Ernie Andrews(vo)、Ed Blackwell(ds)–当時Ornette Coleman(sax)バンド、Lew Tabakin(Ts)、John Hicks(p)、 Ray Drummond(b)、等多数。

Jazz at Pearl’s 
Jazz at Pearl’s fails to renew its lease …The music will stop April 30, says director
※After Hour Session ライブ・アワーを終えてからのセッション。1:30am~5:30am頃の時間帯。 当時サンフランシスコには5,6件のJazz Clubがあり、ライブ演奏を終えた多くのミュージシャンがセッションを楽しんだ。

1986年、当時64歳のBluesSinger Jimmy Witherspoon(vo,g)、Richie Goldberg(ds)※、Wyatt Ruther(b)※らと共演。
※Richie Goldberg(ds)はRay Charlesバンド、Rahsaan Roland Kirk(sax他)との長年の共演メンバで、Wyatt Ruther(b)はErroll Garner(p)の名曲Misty 初演時の共演者。
その後、1988年に名古屋のJazzClubの出演依頼により来名、日本での活動を開始する。

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